生成りの紙に色鉛筆と淡い水彩で描いた五つの蜜柑と、左下の薄い線路の象徴画

十一月に入り、冬の物語にも心が向く頃になりました。今日は、芥川龍之介の短編『蜜柑』の一場面に立ち止まってみます。

汽車に乗り合わせた少女に、語り手の「私」は初めから冷たい目を向けています。少女が窓を開けようとするのも、気まぐれとしか思えません。ところが、その手から蜜柑が投げられた先には、見送りに来た三人の男の子がいました。「私」は、少女が弟たちに応えようとしていたのだと受け止めます。蜜柑は「暖な日の色」と記されています。

気になるのは、少女が「私」のために何かをしたわけではないことです。少女には、少女が大切にしている相手と、別れの時間があった。「私」の知らないところで、その思いは最初から動いていたのだなあと感じました。

私も、人の言動を、自分にとって親切か、不都合かという物差しで見てしまいます。その人が誰を思い、何を抱えているのかは、ほとんど知らないままなのに。事情が分かって初めて認めるのなら、認めるかどうかの席には、まだ自分が座っているのかもしれません。

この小説を、そのまま仏教の教えに重ねることはできません。ただ、仏法を聞く私自身の見方を考えるきっかけになりました。分からない相手を、分かったつもりで片づけてしまう。その早さに、少し立ち止まりたいと思います。蜜柑の明るさとともに、そこへ至るまでの「私」の冷たさも、心に残しておきたいです。

出典:芥川龍之介『蜜柑』、終盤の踏切の場面。青空文庫(底本:『蜘蛛の糸・杜子春』新潮文庫、新潮社)。『蜜柑』本文

蜜柑が届く、その先に

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