「気持ちを切り替える」という言葉を考えると、心にもスイッチがあればよいのに、と思います。済んだことが気になったり、誰かの一言を引きずったり。そうした心と、お念仏とは、どのように関わるのでしょう。今日は『教行信証』の「正信偈」にある、雲と霧のたとえをたずねます。
「雲霧の下、明らかにして闇無きが如し。」
この前には、貪りや怒り、憎しみの心が、雲や霧のように真実信心の天を覆うと記されています。それでも、阿弥陀仏の光に照らされるところは、暗闇ではない。雲がなくなってから光が届く、という順番ではないのですね。
この言葉を読むと、教えを聞いた成果を、心がすっきりしたかどうかで量ろうとする見方が揺さぶられます。穏やかになれれば、よく聞けた。腹が立てば、まだ足りない。そんなふうに受け止めてしまえば、結局は自分の心の出来具合ばかりを見つめることになります。
難波教行氏の解説「親鸞聖人と雲霧」では、光に照らされるからこそ、自分の貪りや怒りの姿が明らかになると述べられています。心の曇りに気づくことまで、教えが届いていない証拠にしなくてよい。その受け止めに、立ち止まりました。
もちろん、怒りがあるのだから仕方がないと、人を傷つける言葉を正当化する話にはしたくありません。謝るべきことや、言い直すべきことは残ります。その私を見捨てないはたらきとして、本願を聞く。心を整えきれないままでも、お参りし、教えに耳を傾ける。その歩みを大切にしたいと思わせていただきました。
出典:親鸞聖人『教行信証』行巻「正信念仏偈」(『真宗聖典』二版228頁、真宗大谷派)。
参照:難波教行「親鸞聖人と雲霧」(真宗大谷派教学研究所、『ともしび』2026年4月号掲載)。

