亡くなった人に対して念仏していると思っていました。この言葉に出会うまでは。
親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
「歎異抄」第五条
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、父や母のために1度も念仏したことがないそうです。初めてこの言葉に出会った時は、混乱しました。だって、世界中にある多くの宗教は、死者に祈りを捧げてこう言います。
「どうか安らかに・・・」
親鸞聖人は、そうではないようです。そのあとには、こう続きます。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。
「歎異抄」第五条
全ての有情(衆生)、つまり私たちは皆父母や兄弟であり、浄土に生まれて、みな救わなければならないと言います。なぜ今すぐに助ける方法はないのか?
この世を生きる私たちは、等しく凡夫です。
そこに住んでいても漏れなく凡夫です。
テレビにでている不倫をしたあの人も凡夫です。
町を歩いているあの人も凡夫です。
よく買い物に行くお店のあの人も凡夫です。
あなたと一緒に住んでいるあの人も凡夫です。
そして、あなたも私も凡夫です。
真宗の視点に立った時
ありのままの姿、命の存在、真実の立場に立った時
そこに序列や優劣、上下関係などありません。これは事実です。
そして、等しく凡夫は煩悩に惑わされ、欲張った考えや行動を起こします。
欲しいモノを手に入れたい。あの人を自分の思うようにしてやりたい。
自分はこういう人間でありたい。自分が正しくて、あの人は間違っている。
しかし、事実はこうです。
風邪は引きたくないけど熱を出す。
歳は取りたくないけど誕生日がくる。そして、膝や腰が痛い。
事故には会いたくないけど、車をぶつける。自転車で転ぶ。
死にたくない、死んでほしくないけど、死んでいく。
喧嘩はないほうがいいと言いながら、怒りが湧く。相手の感情を逆なでる。
相手を傷つけてはいけないと思いながら、冷たい言葉を吐く。
後悔はしたくないと分かっているのに、振り返れば後悔ばかり。
そんな私たちが、他人を救えますか?
自分が、あの時荷物を運ぶのを手伝ったお婆さんは
その場では助かったかもしれません。
それでその後、お婆さんの荷物を持つ時に苦しむ生活はなくなりましたか?
助け合わなければならないのは事実です。
しかし、その時救ったと思ったあの人は
本当にその苦しみから解放されたのでしょうか。
私たちに、そのような力はありません。
そんな私たちが、亡くなった人たちに念仏しても
その人たちは救われるのでしょうか?
そもそも、その人たちは、それを望んでいるのでしょうか?
むしろ、思い通りにならず苦しんでいるのは私たちなのでは?
そうは思えませんか?
命を終えていったあの人も
たくさん苦しいことがあったでしょう。
この世を生きている時は楽しい思い出ばかりじゃなかったはずです。
今のあなたと同じです。
娑婆世界、五濁悪世と表現される私たちの世界は
自分の望んだ結果が必ず生まれる世界ではないのです。
それは何故かというのなら答えは簡単です。
望む結果が人それぞれ違うから。
自然(森や海以外の意味を含む)は望みを持たないから。
だからこそ、私たちはその事実を見つめ、受け入れ
自分の現実と向き合って生きていかねばなりません。
それは念仏が私たちに
教えてくれることの1つなのでしょう。
大切なあの人が、自分自身の死を通して
無意識的であったとしても
あなたに伝えていることなのでしょう。
そして、あの人は今、あなたの心の中で
あなたが自分の現実をどう生きていくのか
それを案じているのかもしれませんね。
その気持ちを思い出すために
その気持ちを確かめるために
今日も一日現実を生きていくために
お念仏を申していく生活もよいのではないでしょうか。
#念仏する暮らし
今年もお盆参りが始まり、一日のうちでたくさんのご家庭のお仏壇に
手を合わせることが多くなりましたので
ふと、考えていたことを書かせていただきました。
久々の投稿でしたが
最後まで読んでいただいて
有難うございました。
西念寺若院

