木の机に置かれた、開いた本と赤茶色のしおりを描いた淡い水彩風イラスト。

仏教の言葉を調べると、一つ分かった先に、また知らない言葉が出てきます。どこまで勉強したら十分なのだろう。そんなことを考えながら、今日は『歎異抄』第十二章をたずねます。

この章では、経典や注釈を読んで学ばなければ往生できるかどうか定まらない、という考えが取り上げられています。それに対して、本願を信じ、念仏を申すという道が示され、知識の多さを往生の条件にすることは退けられます。では、勉強はいらないのかというと、そう単純でもありません。

「いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。」

すぐ前後を読むと、学ぶことそのものが否定されているのではなく、何のために学ぶのかが問われているように感じます。難しい言葉を説明できることと、その言葉によって自分のあり方を照らされること。その間には、まだ距離があるのだなと思いました。

たとえば、人の話の途中で、知っている言葉が出てきたとします。「それなら分かっている」と思ったところで、続きを聞かなくなることもありそうです。知識が増えた分だけ、聞けることが増えるとは限らない。そのことは、教えを伝える立場にいる私にも、他人事ではありません。

この章の後半には、自分の宗こそ優れていると争う姿も記されています。学びが、誰かより上に立つための道具になってしまう。そんな危うさまで、同じ章の中にあるのですね。

分からない言葉は、これからも一つずつ調べたいです。そのうえで、分かったつもりの自分が何を聞き落としているのかにも、立ち止まりたい。覚えた言葉を増やすだけで終わらず、本願のこころを聞く学びを、続けていきたいと思いました。

出典:『歎異抄』第十二章、『真宗聖典』二版773頁〜774頁(引用は773頁)。真宗大谷派公式「真宗聖典検索」。

知ることの、その先で

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