新年のご挨拶としましては、大変遅れてしまいましたが
明けましておめでとうございます。
流行病に生活を振り回される日々が長く続き、少し疲弊することにも慣れてきてしまったように感じます。
「コロナウィルスのせいで大変だ」と嘆いている私たちは、
ほんの数年前までは、「あの人のせいで」「仕事のせいで」「デフレのせいで」と、全く違う悩みに目を奪われていたのではないでしょうか。
「悩みの規模が違うではないか」という意見もあるかと思いますが、それは客観的な話です。
それぞれの主観に立ってみれば私たちは、いつも何かに苦しんでいます。
今では、コロナウィルスに比べれば、小さな悩み事であるはずのことも
生活の中に、それしかなければ自分にとっては大きな悩みに感じ、その悩みが頭から離れないことでしょう。
その悩みは、コロナウィルスが現れるまで、あたかも自分の人生の一大事のように感じていたのではないでしょうか。
この悩みや苦しみの大きさが、変化した事実こそ、「私(自分)の価値観」が脆く変化しやすいものであることを裏付けているのです。
「私は、理性的で物事を正しく判断できる。そんな自分が悩むのだから、アイツ(仕事、人、経済etc…)は、余程酷いんだろう」という自負心をどこかに持ち、自分の悩みを過大に感じていたのではないでしょうか。
もし、その悩みの大きさがコロナウィルスの出現によって少しでも変化したのであれば、それはその時の自分の価値観の脆弱性を、今のあなたが証明しているのです。
正しくは、コロナウィルスによって、あなた自身が、過去の自分の価値観の不安定さを証明させられたということでしょう。
非常に受け入れがたい事実ではありますが、私たちが数年前まで頭を悩まされいた悩み事は、「流行病で自分や家族、友人たちが死ぬかもしれない」「もし流行すれば生活を維持できず死ぬかもしれないような、計り知れない経済的ダメージを負う」という事実を突きつけられた時には、視界に入らないほどの大きさの悩みだったということを知らしめられるのです。
これを書いている私自身に対しての自戒の念も含めて述べさせていただきますが、私たちは今一度、自分の心の内側を見つめる必要があるのかもしれません。
この価値観の変化は、心の内では見逃されてしまうような小さな変化でしょう。
しかし、自分の価値観がコロナウィルスによって動かされてしまった以上は、理性的な存在であると思っていたはずの「私」は、想像以上に環境によって考え方、性格が左右されてしまう存在であったことが証明されてしまいました。
他人の行いや、政治や社会の責任に、目くじらを立てる前に、自分が悩んでいることが、本当にそれほどに怒りや悲しみを覚えるほどのことなのかよく考えてみませんか。
社会や政治、他人に対して「気に入らないことは気に入らない。でも、好きなところは好き。」ただそれだけでいいのではないでしょうか。何事も自分の理想に当てはめようとしすぎると無駄に苦しみ悩むことになるのではないでしょうか。
もしかすると私たちは自分で思っている以上に、社会や環境、他人に振り回されるだけの虚しい時間を過ごしていたという事実に気づかされるかもしれません。
前置きが長くなりましたが、「おはつまいり」のご連絡をさせていただきます。
令和4年のお初参りは、
日時 1月25日(火)午後2時より
場所 西念寺本堂
一 住職、若院等と正信偈を唱和。
二 参詣者は焼香・合掌・礼拝の上、随時散会自由。
三 最後に寺側から年頭のご挨拶。
となっております。このような状況ではございますが、お時間ありましたら足をお運びいただけると幸いです。

