当寺院は、北海道斜里町にて、この町に住む人たちと共に、仏法を通して、その人生とその課題に向き合っていけるように願われ、昭和16年に建てられた真宗大谷派の寺院です。寺院の設立にあたり、様々な門信徒の方々の願いと協力、そしてその努力についてあった史実を、少々長くなりますが、なるべく簡潔に紹介させていただきたいと思います。

明治・大正の斜里町

大正時代の動き』

明治37年日露戦争後の当町は飛躍的に発展した。植民地解放と定期船の寄港や、網走線の開通等によって交通が開けると同時に、地味や気候に恵まれている当町は漁業より次第に農村斜里に移行する。そして、明治40年末の戸数は420戸、人口1462名になった。また41年には655戸、2455名、42年は717戸、2852名に増加し、41年の農家移住者は実に128戸という数字を示し、さらに大正3年、第一次世界大戦の勃発が雑穀類の景気を暴騰させて、北見内陸農村の様相を大きく一遍させることとなった。

大正3年末になると、戸数は1719戸に達して、明治36年からわずか1年間に約十倍の増加を示し、大正4年4月1日から二級町村体制が施工され、第一回の村会議員選挙が行われた。今までの七名の総代人から、12名の村会議員になる村治が議せられることになったのである。そして、大正5年末の斜里人口は10273名に達した。

大正6年、斜里説教場が6代目有栖秀丸の時、こうした状況を背景に一寺建立の気運が盛り上がり、旧来の説教場から「一寺ヲ建立シテ称名寺ト称ヘ…」んとする壇信徒の願望は一人一人に浸透していったことで、有坂克巳・吉野由太郎・本間鉄蔵・藤沢純一・山田清一・太田久松・近藤甚右衛円の7名が、仮称”称名寺”創立発願者総代となり、同年1月には壇信徒ほぼ全戸の171名、六千六百円の寄附額を決定している。
そして、早速寺院創立願の申請書類を作成し、壇信徒藤田舛吉氏が工事を請負い、4月富山県より以久科に移住の寺大工、林仁兵衛のほか以久科及川屋大工等が中心となって着工された。

寺号の公称

『大正から昭和 ~竜山厳正師より鈴木真一師へ~』

こうした寺院の建築は、主管者と総代が中心となり、全壇信徒の寝食を忘れたいわば血のにじむような努力によるものであっただろう。。。
大正6年10月、小高い丘の上に、真新しい9間4面の本堂と庫裡が堂々とその姿を現した。このことは門信徒にとても喜ばれ、年内に落慶法要が厳修された。しかし、称名寺の寺号は公称を出願するにあたって、深川町澄心寺住職、円浄澄心師を一応予定住職と定めて申請したこともあったらしく、主管者有栖秀丸師に住職資格上の問題があったのではないだろうかと推定されている。

大正8年6月頃、竜山厳正師が本山派遣使僧として、当地を訪れたことがあったが、これが縁となってたまたま有栖師一時不在の代務者として、総代吉野由太郎氏により強い推薦があり、総代会の協議によって7代目主管者に決定した。大正10年5月1日、予定住職竜山下厳正、檀信徒総代 本間鉄蔵吉野由太郎藤沢純一を以って、改めて寺号西念寺で寺院創立出願手続きがなされ、同年6月3日本山より寺号公称が正式に認可され、道庁の社寺登録簿には大正10年9月12日道の創立許可、同13年6月19日創立完了出済となっている。

西念寺初代住職竜山師は、大変すぐれた経歴の学僧であったが性来病弱であったらしく、当時は交通不便で広い地域に散在していた各檀信徒宅を徒歩で巡る法務は、かなりの家老であっただろうし、大正15年はじめについに病床に伏し、後任の推薦を北海道教務所に依頼している。同教務所でも、有栖師と竜山師の交代が必ずしも円滑であったわけではなく、それがため檀信徒間に分裂の兆しが生じた事情もあり人選にはこれらのことも十分考慮され、鈴木真一師の推薦となり竜山師も檀信徒世話人と協議を重ねて、全員一致で西念寺住職に迎える運びとなった。

大正15年11月22日、鈴木師は説教場時代から、八代目の住職に就任し一体感が崩れたいわば議論百出といった具合の檀信徒の心を、宗祖聖人のみ教えのもとに、再び和合せしめる重大な使命が若干25歳の新住職の肩に課せられたわけである。この時の総代は、藤井音吉羽広仁吉渡辺信太の三氏で、その後よく住職を理解し補佐し続けた。

昭和の町の動き
大正時代は雑穀景気や風害対策、造田などの農業に大きな波乱のあった時代であったが、昭和初期にはいると、昭和5年の農産物大暴落とその翌年まで続く冷害、さらに8年の豊作を挟んで襲った9、10年の凶作は、当町の農業を新しい転機に追い込んだ。そこで冷害の克服が最大の目標とされ、自給農業の確立、経営の合理化、地力の増進などが叫ばれた、こうして経済更生に向かって農村再建に出発したとき、支那事変の勃発は中堅労力を戦場へさらい、農業資材も欠乏し、農業経営はすべて戦争の中に新しい組織化を強要されて、実質的な戦時における非常態勢であり、生産、集荷、資材配給まで戦時体制の枠の中に置かれるものとなった。

一方、大正15年3月、262軒までに達していた商店の数はこれをピークとして昭和期には入ると、次第にその数を減じて180軒という数にまでおちていった。これは昭和初期の不況のあおりを受けたためである。こうした不況に加えて、6,7年の凶作は多くの農業者を打ちのめしただけでなく、その余波商店街にも大きな影響を与えた。しかし、昭和9年商業組合を組織してからは、次第に立ち直りをみせたが、支那事変の影響は、

 

物資の高騰並びに欠乏に依り 其の供給状況を著しく円滑を欠き日常生活に対し懸念せられありしも、商業組合の整備強化及各種物資配給団体の設立、地域的要求より上斜里商業組合の設立等に依り、割当制度の運営に遺憾なきを期しあり
(昭和14年『事務報告』)

 

といった状態になり、昭和15年からは遂に統制経済という非常事態が初めて日本経済上にあらわれてきた。
こうして商工業に対する経済的重圧が加わるにつれて、斜里町でも中小商工業者の転機に追い詰められたので、臨時商工業者転換対策委員会を設けて、企業合同と撤廃業の対策が講じられたのである。

昭和15年5月30日から米穀と石油、石炭その他の生活物資の切符制が実施され、8月以降の米穀は通帳制に改められた。その後年々生活物資が自由経済から外されてしまい、遂には配給でないものはなくなって、商店は従来の商店という性格から、国家の計画する配給機構の施工期間というものに性格が変えられていった。

本堂の移転
このような斜里村の動きの中に、大正15年に着任した新住職がまず着目したのは本堂の移転であった。京都、大阪、朝鮮と各地で布教活動に従事した経験をもつ新住職は、当時の所在地は時代に即応した将来の教化活動という面で決して適した位置とは思えなかった。在家仏教といわれる浄土真宗の本堂は決して威厳や荘厳味を謳いあげた伽藍ではなく、檀信徒が聞法するための道場であり、人々に親しまれ集まりやすく、檀信徒の日常生活にとけ込める位置が望ましいと考えたためである。当時32歳の青年住職は昭和5年10月に将来の布石として、現西念寺の境内地、斜里村168番1、168番4、約917坪の宅地を独力で購入している。
この移転問題は檀信徒に大きな波紋を呼んだ。昭和初期の災害や戦時体制移行の統制体制によって影響をようやくのりこえた農村や商店街を含む檀信徒の和合に大きな打撃を与えたのである。本堂の移転問題について檀信徒は二分して激論を交わしたが、当時の国家体制は生産性増進以外にも建築を極力制限するほうしんであったため、昭和12年新住職に対し召集令状が下ったのを機に一時中断となった。
しかし、昭和14年に召集解除により無事帰還となった。多くの戦友を失い、生死の境を越えて帰還した住職は移転問題に精力的に取り組み、総代と共に檀信徒の説得にあたった。何度も会議がもたれたが、とくに渡辺信太氏は総代としてどのような激論の中でも、常に冷静かつ沈着に一貫した論理と信念をもって答弁の座についた。こうした努力が実を結び、昭和16年3月には全壇信徒が一致して本堂の移転を決め、工費壱萬円の檀信徒寄附割当も決定して3月29日には本山の移転承認書を受けている。

しかし、建築許可を申請しつつ、着工した移転工事は、一層厳しさを増し続けた戦時体制下にあっては無断建築ということで網走支庁からは、再三四注意勧告を受け、さらに若いだいくは次々と応召や徴用で現場から消えていった。真一師は何度も道社寺課を訪れた。ある日「国策に反する故、絶対に許可できる筈のものではない。何度来てもムダですよ」と言われ、遂に力尽きて自失呆然として道庁の待合室ベンチに腰を下ろしていた。しばらくして、大きな掌が彼の肩をたたき「鈴木じゃないか!」と大きな声をかけるものがあった。それはかつての上官陸軍大尉坂本丑平氏で、現在道庁嘱託として、総務部会計課に属しているということであった。彼は一部始終を聞くと、あらゆる協力を約束したが、果して数か月後道庁の社寺課ではなく、労政課より建築許可が下り、内諾の電報は同じく戦友の斜里警察勤務加納巡査を通じて、極秘に西念寺へ伝えられた。

その後建築は進み、当時の報恩講厳終日程、12月6日、7日、8日にかろうじて間に合い、参詣者もここ数年来で最高を記録し、まだ壁などは乾ききっていない本堂の中で、門信徒は心から完成を喜びあったが、報恩講3日目の早朝大東亜戦勃発の報が伝えられ、参詣者一同の喜びは驚愕に打って変わった。

一方、昭和26年町民多数の中に幼児の保育施設の設置を求める声が高まり、総代会で協議を重ねた結果、仏教保育を根幹とした社会福祉施設、双葉保育所を設立した。施設は斜里高等学校技芸学校の一部を転用し、保育室遊戯室計53坪、定員47名、職員3名の規模であったが、昭和28年10月26日、境内隣接地斜里町本町39番地の8,宅地182坪を独力で購入しており、これが基礎となって昭和41年12月19日、学校法人 斜里大谷幼稚園の設立をみるに至り、前住職のともした仏法の燈は、今も多くの子供たちの心に伝えられている。

最後に
 少々長くなりましたが、以上のような背景をもって西念寺は設立され、今日においても、多くの人達の願い、そして協力によって支えられています。しかし、近年では、年齢に問わず「宗教離れ」「寺離れ」が叫ばれ、歴史的にみても人々の生活の土壌となってきた思想や願いと、私たちの生活が乖離しやすい時代になったのでしょう。
 人のもつ能力によって目覚ましいほどの社会が発展し便利な世の中になり、一方では、政治家の発言や有名人の言動が度々炎上するなど、人が人に攻撃することが身に見えて分かるようになりました。言い換えるなら、人の持つ道理や筋道を正しく判断する能力である「理性」が絶対視され、社会では、ひたすら合理的・倫理的判断が求められていることが、顕著に認識できる時代になってきたように感じます。そのような人の持つ「理性」によって私たちの住む世界は発展し、生活の利便性が高まり、豊かになってきたのは事実でしょう。たしかに、お金を稼ぐためや、地位・名誉・評価を得るために、仏の教えが、役に立つことはないでしょう。

しかし、私たちの中には、正しくあろうとする「理性」と別に、各々のもつ個人的な欲求や、コントロールできない感情が存在するのは、誰しも認められるところなのではないでしょうか。その「欲求」「感情」は、「理性」と同じ方向に動くこともあれば、時には「理性」とは全く逆の方向に動くものであるものです。だからこそ、私たちは時にどうしようもない息苦しさを感じ、やり場のない感情に心が一杯になってしまうことがあるように思います。
「人」という存在は、現実として、「理性」と「理性ならざるもの」が不可分に統合された存在であることは、紛れもない事実であり、私たちが忘れがちな真実なのではないでしょうか。そのような矛盾した内実を持ち合わせる「人」は、ひいては「自分自身」は、どのように生きることを望んでいるのか。「人」として生きる上で大切にしたいことは何かを、今一度考えてみるべきなのではないでしょうか。
だからこそ、西念寺では、その内心を問わず念仏する人たちと仏法を通して、この問題について考え、それぞれの生活の上に起こる苦悩と向き合い、それぞれの喜びや悲しみを共有できる場になることを願っています。

それぞれの「生」について、少しでも多く皆様と言葉を交わせる機会がありますよう願っています。南無阿弥陀仏

合掌