住職修習のご報告

 8月25日に高橋総代と私の2名で斜里を出発し、8月26日から8月28日までの住職修習に参加させていただきました。

 ご門徒の皆様には、心より御礼申し上げます。おかげさまで任命をうけ、台風も懸念されましたが、進行が遅く無事に帰ってくることができました。

 留守中、若院と役員の皆様でお彼岸の袋詰めをしてくださり、坊守もお米不足等のアクシデントをなんとかしてくれていました。有難い事です。

伊丹空港に到着しホテルにチェックインし、夕方に研修会場の下見も兼ねて東本願寺に参拝いしました。すると、豪雨となり「明日の研修は大丈夫だろうか」と不安になりましたが、26日は天気も良く、元気に受付することができました。

 

 研修期間は住職予定者グループと引率総代グループに宿泊部屋がわかれ、講義以外は別行動となりました。総代さん大丈夫かなあと思いましたけれど、そこは高橋総代、明るく堂々としたもので心配無用でした。研修が進むにつれてグループの中心的な存在になっていたようです。存在感のせいでしょうか・・・初日の夕方の勤行のあと、いきなり感話(参加者の皆様の前で数分、感じたことや二頃思う事を数分お話すること)に指名されました。

 寺院活性化グループワークのときに、他の総代さんとお話をする機会がありまして「おときが旨いとお参りが増える!美味しくしていきたい」という抱負を聞きました。「本当かなあ・・・」。僧侶の部屋にもどって、みんなに尋ねてみると「そうだよ。おときは大事だよ。うちの寺はおときを止めてお参り半分になった。」と、口々に「おときは大事!」と言っておられました。そういえば・・・幼馴染が「お寺のうどんは、なんでか上手いよな。」と言ってました。ソールフードというか忘れない味ってものがあるのかもしれないです。ほんと、いろんなことを教えてくれる場でした。

 

 僧侶は、着物に着替えます。日程中は、黒い衣に黒い袈裟(墨袈裟)で過ごします。得度をしたときもそうでした。大谷派教師になるための研修も真っ黒でした。親鸞聖人の御命日にそうされている方もおられます。お寺にかけられている親鸞聖人は黒い衣に黒い袈裟をかけられております。なにか人生の節目節目に、いまいちど親鸞聖人のお心にかなう僧侶であれという願いが込められているのではないかと感じます。(日程中はスマホ禁止だったので写真がとれなかったです。カメラを持っていけばよかったと少し後悔)

 親鸞聖人御命日の晨朝も緊張しました。後座グループの先頭になってしまい、畳の何枚目をあるいて・・・あそこに座って、退出は遅れないようにどのタイミングで立とうか・・・。「あっ、頭礼わすれた!」とか、内心ドキドキしました。ご本山の皆様は、毎日毎日、きっちりとスムーズに仏事を行っていて、洗練された伝統的な生活が出来上がっている。これはこれで凄いなあと感じさせられました。

 

 講義をしてくださいましたのが「海法龍」という先生でありまして、若いときに大谷保育協会の研修でお目にかかって以来、様々な研修会でお世話になっていた方で、お育ていただいた残り少ない先生のおひとり。人生の節目でご法話をいただけるという事に不思議さと有難さを感じます。大変、嬉しい事でありました。全国を回られている先生なのですが、特に首都圏開教にご尽力されておられます。子どもに「おじいちゃん、おばあちゃんは家族ですか?」と尋ねると、「親戚です。」と答えがかえってくる。お骨は、まるで産業廃棄物のように捨てられる。・・・そのような現代にご縁を生きる尊さ・平等なる本質を伝えようとされておられる方です。

 

 私は、研修前日、よく眠れませんでした。今まで研修だって、研修スタッフだって、講師だってやったことはあります。これだって研修の1つ。きっと大丈夫なはずなのに、むしろ慣れた態度をださぬように注意しなければならぬようなものだと思っているのに、身体が眠れないのです。研修中に、ふと、指先が震えていたのにも驚きました。それで、この身の委縮は一体なんなのだろうか・・・ずっと考えておりました。

 そのような疑問の中で、海先生は「法名をいただく、新しい人生のはじまり、それは完成ではなく未完です。」と語られました。私の身の委縮とは「未完の覚悟」だったのだと知りました。それまで、前住職(他者)の背中に批判を浴びせることで、自己正当化を繰り返してきたのでした。その相手が見えなくなり、今までの生き方が通用しなくなり、おじけづいているのです。海先生のお言葉は「おじけづいた」未熟さに身を据える。未完・未熟を生きる覚悟のご催促のように思えます。

 また、「これからが、いままでを決める」と言われました。このお言葉は、私が斜里を出発する前夜に読んでいた元氏先生の恩師である藤代先生の「藤代聡麿先生法語録」の中のお言葉でした。他にも「念仏はひとりで。この世はみんなで。」とか、「太古からの遺産。それが、我が身である。」というような言葉が目に留まりました。けれども、研修会での海先生のお言葉は、黙読していたのとは異なり、亡き恩師、元氏先生が住職修習まで足を運んで下され、直接、声をかけてくださったかのような響きがしました。

 講義の始まりと結びのほうでは「新住職の誕生は、新坊守の誕生であります。坊守なくしてお寺は成り立たない。」と言われました。住職おめでとうならば、坊守おめでとうなのです。あらためてご縁に生きていくのだと知らされます。

 住職修習3日目に、全員が集まり、1か寺づつ、住職予定者と総代が向かい合って座り、住職予定者が覚悟と抱負を述べ、総代が応えるという時間がありました。私は「幼稚園を立て直すとき、死力を尽くすと覚悟しました。お寺の場合は死力を尽くすだけでは足りません。幼稚園では、自分のことを愚か者だと表白すると、みんなが本気にしてしまうので言わない方がいいと指摘されたことがありました(表白をやめた)。それでは駄目なのです。教えが伝わっていかない。謝りながら(表白しながら)、頭を下げながら生きていかねばならない。だから、世間では立派な住職とはいわれないと思う。それは、総代さんにとって情けない事(不名誉)かと思いますし、ご迷惑をおかけすることとなります。お覚悟を。」と言いました。

 そうしますと、高橋総代は「うけたまわりました。」との一言。周りが驚いている様子をみてか、続けて少しお話して捕捉くださいましたが、何とも言えない瞬間でした。私どもがトップバッターでしたが、各御寺の僧侶が一人胸の内にしまっていた思いを吐露し、総代が受け止めて下さる時間でありました。毎月毎月、住職修習が行われ、このような瞬間の連続が真宗教団の歴史を紡いできたと知らされます。

 今朝から、班長さんのお電話があったりお寺に足を運ばれたりと、お彼岸の封筒配りを一生懸命されてくださっているみたいで、本当に有難うございます。

住職修習ご報告

真宗大谷派 西念寺


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