西念寺では、毎月25日に定例法話を開いています。法要のある月など、お休みする月もあります。
人のことを大切に思っていても、いつでも穏やかに向き合えるとは限りません。たとえば、頼られるとうれしいのに、忙しいときには少し負担に感じる。そんな心の揺れを、今回の定例法話のお話と重ねて考えています。
信じる心は、どこから
法話では、親鸞聖人の『教行信証』の「信巻別序」を手がかりに、信心についてお聞きしました。難しい言葉も出てきますが、中心にあったのは、信じる心はどこから起こるのか、ということでした。
「信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す。」
信巻別序の冒頭にある言葉です。信楽は、阿弥陀如来の本願を信ずる心のこと。ここでは、その心が如来の願いから起こると示されています。
信心と聞くと、私がどれほど強く信じられるか、どれほど熱心に励めるか、という方向で考えてしまいそうです。けれども法話では、自分の努力でつくり上げる心としてではなく、阿弥陀如来の本願から起こる心としてお話しくださいました。自分の心の強さだけを見つめていては、受け取り損ねてしまうことがあるのですね。
大切にしているつもりの、その中にも
お話には、人を大切に思う心にも、自分の都合が混じるという、日常に引き寄せたお話がありました。相手を思っているつもりでも、自分の望む形で応えてほしいという思いが入ってくる。自分では気づきにくいところです。
「煩悩具足の凡夫」という言葉も出てきました。煩悩を身にそなえ、そこから離れきれない私たちのことです。遠くにいる誰かの問題として聞けば、それで話は済んでしまいます。でも、大切な人に向ける思いの中にも自分の都合があると聞くと、その言葉が、ずいぶん身近なところに届いてきます。
私も、人を思う気持ちがあることと、相手を自分の物差しで見ていないこととは、同じではないのだなあと考えさせられます。相手のためと言いながら、自分の思いどおりにしてほしい気持ちを隠してはいないか。お話を、誰かを批判するための物差しにしてしまわず、自分のところで聞きたいと思います。
自分を知ることと、願いに遇うこと
ただ、自分の都合に気づく話だけで終わると、私はだめだ、と自分を責めることになってしまいます。法話で確かめられていたのは、そういう私にこそ阿弥陀如来の願いが向けられている、ということでした。
立派になれたかどうか、心がいつも落ち着いているかどうか。その出来具合を救いの条件にしてしまえば、また自分の心の調子ばかりを数えることになりそうです。煩悩を離れきれない私の姿を知らされることと、その私を救おうとする本願を聞くこと。その二つを切り離さずに受け止めていきたいと思います。
法話の終わりには、教えを理解しきったから救われるのではなく、お念仏の中で、そのつど教えられながら歩むというお話がありました。難しい言葉がすぐには分からなくても、自分には関係がないと遠ざけなくてよいのですね。
私は、信心という言葉を、自分の中に何か確かなものを持てたかどうかだけで考えなくてもよいのだと思わせていただきました。人との関わりの中で、また自分の都合が顔を出すこともあるでしょう。そのたびに、私に向けられた願いを聞き直す。若院としてお話をする立場にあっても、聞かせていただく歩みを大切にしたいと思います。
初めての方も、どうぞお気軽にお参りください。一緒にお話を聞かせていただけたらうれしく思います。
出典:親鸞聖人『教行信証』信巻別序(『真宗聖典』二版235頁)
