真宗大谷派 西念寺            

【雉のつぶやき】子どもに気づかされる「偏見」

私たちは日頃自分の価値観による「偏見」を持って生活しています。
「偏見」とはどういうものでしょうか。
このなぞなぞは、それを表わす良い例になると思います。

問題です

あるところに父親と息子がいました。
ある日、この親子は仲良くドライブに出かけました。
しかし、安全運転していたにもかかわらず、交通事故に遭ってしまいます。
親子は近くの病院に緊急搬送されました。
病院に着くと医者は、運ばれてきた子どもの方をみてこう言いました。
「この子は、私の子どもです。」
この医者は一体何者でしょうか。

このなぞなぞは、子どもであれば比較的早く正解できると言われています。
私も一度、ご法話の席で出題させていただいたことがございますが
皆さん答えを聞いて「なるほど…」という感じでした。
答えはこちらになります。
















答え
答え。医者の正体は「子供の母親」です。

分からなかった方々、「なるほど…」となりませんか?
多くの人は、「医者」と聞き、「白衣の男性」「手術着の男性」などを思い浮かべるのではないでしょうか。
「医者」=「男性」という発想は、「偏見」と言っていいでしょう。

このように私たちは日々偏見を持ちながら生きています。
それは他人に対しても、自分の子供に対しても言えるものなのかなと感じました。

いつもいたずらする子、調子に乗ってしまいがちな子が、間違ったことをした時、
どうしてそういうことをしたのか聞かずに、「またいつものか、、、」と決めつけてしまうこともあるのではないでしょうか。
でも、実はちゃんと話を聞いてみると、自分なりに一生懸命考えた解決策であったり
子どもなりに自力で何とかしようとしている成長の過程であったりすることもあります。
やってはいけないと分かっているけど、どうしてもしてしまう本人なりの言葉にしづらい気持ちがあるのかもしれません。

たまに、まっすぐ目を見て、その子が何をしたくて、どうしてほしかったのか、どういう気持ちなのか
聞いてみると大人が思っている以上に、予想外な答えが返ってくるかもしれません。

そして、子どもにとっても、「言葉足らずな自分でも、ちゃんと向き合って、自分の話を親身に聞いてくれる人がいる」と感じることは
本人にとってかけがえのない経験の一部になるはずだと思います。

「偏見」は、効率的に物事を処理するために便利なものですが
私たちから大事なものを見えなくする側面もあることには注意しなければならないと感じた今日この頃です。

【雉のつぶやき】子どもに気づかされる「偏見」
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